楊 兆泰(よう ちょうたい)は中華民国の政治家・教育者。閻錫山率いる山西派の一員。字は階三。
生涯
公立山西大学堂を卒業。1915年(民国4年)12月、中大夫の位を授与された。山西高等農林学堂教務長、河東道第一中学堂監督、山西都督府秘書長などを歴任する。1919年(民国8年)、山西省政務庁庁長となった。同年8月、山西医学伝習所(現在の山西医科大学)の初代校長となる。1922年(民国11年)、山西省財政庁庁長に任命された。
閻錫山が国民政府側に転じた後の1928年(民国17年)3月、山西省政府委員兼民政庁庁長に任命される。翌年9月、国民政府中央の内政部部長に抜擢される(ただし、1930年3月からは鈕永建が代理)。1930年(民国19年)12月、山西省に戻り、太原に寓居している。
1936年(民国25年)、死去。享年57。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 山西医科大学「歴史沿革」(山西医科大学ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。




