1965年の西鉄ライオンズでは、1965年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
この年の西鉄ライオンズは、中西太選手兼任監督の4年目のシーズンである。
概要
1963年優勝の陰の立役者だった若林忠志前ヘッドコーチが開幕前に急逝すると、若林に「成績不振の責任を取らせた」と地元以外のマスコミに批判された中西監督の心労は募り、4月18日から3週間にわたって病気休養し、深見安博ヘッドコーチが監督代行で指揮をとるに至った。中西監督の休養期間中、チームを4月を首位の南海と3ゲーム差の3位と健闘したが、中西監督が復帰した5月11日以降は南海とのゲーム差が広がり一時は最大で25ゲームもつき、西鉄は一度も南海に追いつくことはできなかった。8月以降平凡な成績に終わった南海との差を詰めたが、時すでに遅く15.5ゲーム差で3位に終わった。それでも前年2位の阪急や4位の東京が開幕からBクラスに終わったのに比べれば健闘した。投手陣は稲尾和久が完全にリリーフ専門となり、代わってこの年入団した池永正明やエースに成長した田中勉などがまずまずの結果を出し、打撃陣は大洋からフランシス・アグウィリー(アグリー)が入団して主軸を打ったほか、不動の1番高倉照幸や玉造陽二、城戸則文などもそれなりの成績を残した。
チーム成績
レギュラーシーズン
オールスターゲーム1965
- 取り消し線は出場辞退した選手
できごと
- 4月18日 - 中西太監督兼内野手、病気で休養。深見安博ヘッドコーチが代行( - 5月11日)
- 10月10日 - トニー・ロイ選手、東京オリオンズ戦で本塁打を打ちながら、前の走者を追い抜いて取り消し。
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
出典




